『マグカップのように』

人差し指の先に赤い点が浮き上がり、徐々に大きくなっていく。
陶器の破片で指を切ってしまったようだ。
とりあえず傷口を軽く舐め、応急処置を施す。
口の中でかすかに鉄の味がしたが、幸いそれほど深い傷ではないみたいで、血はすぐに止まった。
それにしてもあっけなく割れてしまったものだなぁと、床に散らばったマグカップだったものを拾い集めながら思った。
よく見たら、君がよく使っていたカエルのキャラクターが描かれているものだった。
あの頃の彼女はなにを飲むにしても、とりあえずとこのマグカップを使っていたんじゃないだろうか。
寝起きに飲む水や食事中のお茶、晩酌で買ってきたワインですら、彼女はこれに注いで飲んだ。
どこがそんなに気に入っていたのだろうか。
そういえば、彼女にこのカエルのキャラクターが好きなのか聞いたことがあったっけ……。
「特にカエルが好きというわけじゃないのだけど、このカエルは好き。どこかあなたに似てる気がするの」と彼女は言った。
どこらへんが似てるのか、彼女自身も「なんとなくそんな気がするだけよ」と言って、よくはわからないようだった。
そのときはそういうものかと思って「ふぅん」と流してしまったけれど、いま改めて思い返してみると、どこか腑に落ちないようなわだかまりを胸の中に残しているような気がした。
「またひとつ思い出を失ってしまったなぁ……」と僕は独り言つ。
いつからか、僕は彼女との思い出を数えるようになっていた。
例えば、君が使っていたマグカップだとか、僕に似ているカエルのキャラクターだとか、ふたりでよく行っていた交差点角の小さなパン屋さんだとか。
見ただけで君のことを思い出す、なにか感じる、そんなモノや風景をみつけるたびに、僕は思い出の数を増やしていった。
その一方で、こうしてマグカップを割ってしまったり、交差点角のパン屋さんが大手チェーンの牛丼屋になっていったりと、壊れ、変化していく世界が僕の中から思い出の数を減らしていった。
そうやってこの壊れゆく世界の中で、僕は君を思い出すための糸口を少しずつ、でも着実に失っていくのだろう。
そして最期には、思い出を持たない僕の存在自体がこの世界とともに壊れていき、終わりを迎える。
それはきっと、バラバラに砕けてしまってもう元に戻ることのない、このマグカップのようにあっけない。

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