廃線になった線路の上に座ってどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
1時間、いや30分も経っていないかもしれない。
時間を確認しようにも腕時計は着けて来なかったし、他に時間がわかるものも持っていなかった。
まあいい。
どうせ今は、時間なんてそれほど重要なことではないのだから。
ただちょっと、考え事の合間でふと我に返って、気がそれてしまっただけのことだ。
たとえ1時間経っていようが、1日経っていようが、それだけの時間を物思いに費やしたということでしかなかった。
そんななにかについてひたすらに思いを巡らせている時間を、私は無駄だとは感じなかった。
しかしどれだけ時間をかけたところで、私の頭ではなにか納得のいく答えにたどり着けるわけでもない。
答えのない問いかけを永遠と自分に投げかけ、堂々巡りの思考の中でどこか収まりのいい場所を探すだけだ。
そうした無意味とも思える時間が私には必要なのだ。
絡まった糸を解くように、あるいはバラバラになったカケラをつなぎ合わせるように。
その思考の道程によって私の中のなにかが正しい位置に収まり、私が失いかけた私という形を取り繕ってくれるような感覚があった。
そんな頭の中の整理を続けている間、私は右手にチューハイの缶を持ちながら膝を胸につくくらいまで引き寄せ、それを左腕で抱きかかえるようにして座っていた。
こうして背筋を丸めて缶に入ったお酒を飲んでいる様子は、見方によっては胎児が母親の中で産まれるそのときを指を吸いながら待っているように見えなくもない。
けれど、すでにその閉塞された空間を出てから数十年と経ってしまった私にとって、自分の作った殻の中にその体勢のまま閉じこもることはただ窮屈に感じるだけのことだった。
それにこの場所は嫌いではなかったが、母胎で母親の体温を感じながらへその緒を通して確かに繋がりあっていたあの頃に比べれば、なにからも守られず誰とも繋がらずにひとりここに座る私はあまりにも孤独だ。
たとえば、もしいま他の人類が一斉に滅びてしまったとしても、私にそれを知る術はないだろう。
けれど考えようによっては、自分が世界でひとりの人間になったことを知らないで済むのだから、これ以上の孤独を感じずに済んでいいじゃないかと、ポジティブに捉えることもできる。
そんな私のいまの状況について考えていたら、つま先のほうに鈍い痺れを感じはじめた。
痛いというほどではなかったが、違和感としてじわりと指の先を包み込むような感覚がある。
経験から言って、これは立ち上がったりしたらひどくなる類の痺れだろう。
私は左手を離し、抱え込むように折り曲げていた足をゆっくりと前に伸ばしてみた。
「ん……」
軽い痛みがふくらはぎに走った。
そして弱い電流が流れたような感覚が残る。
けれど体勢を変えたことで血流がいくらかよくなったのだろう。
痛みと痺れは徐々に和らいでいき、気にならない程度に治った。
これでもうしばらくはここに座っていられそうだ。
それにしても、5月末の昼過ぎというのは暑すぎず寒すぎず、なんとも快適な陽気だ。
白のブラウスに黒のスキニーパンツという軽装でも、肌寒さなどは感じない。
人生で何度もこの季節を過ごしてきたはずなのに、5月の気候についてなんて、いままで1度だって気にしたことはなかった。
……いや、私には気にしている余裕などなかったのだと思う。
4月のうららかさとは逆に、いつも憂鬱な気分をもたらし過ぎ去っていく5月を私はただ無気力なまま、なにもできずに過ごしていた。
そうして気がつけば6月となり、梅雨の厚い雲がもたらす降りしきる雨は、私の心にどんよりとした暗い影を落とした。
雨が嫌いというわけではなかったが、梅雨に降る大きな雨粒たちは私とこの世界を分厚いカーテンのように遮って、分断した。
そうして、帰属する世界をなくした私を慕ってくれるのは、孤独という名の親友だけであった。
左手を横にすっと伸ばし、その指先で錆びついた線路に触れてみた。
鉄でできたその道は気温よりもいくらか冷たく、私の指先の熱を少し奪っていく。
私は線路を自分のほうへとなぞっていき、そのまま腰を這うように手を上げて、左のポケットからシガレットケースを取り出した。
右手に持った缶を線路の脇に置くと、ケースからタバコを1本取り出して口へと持って行く。
そしてタバコを咥えると今度は右のポケットから銀色のジッポーを取り出し、タバコに火をつけた。
吸い込んだ煙を吐き出すと、口の中にタバコの匂いと苦味が残った。
私は別に日頃からタバコを吸っているわけではない。
わざわざタールやらニコチンやらを摂取して体を蝕みたくはないし、タバコの風味や煙だって苦手なほうだ。
けれどどうしてか、たまにどうしようもなく吸いたくなることがある。
きっと程度の低い自傷行為のようなものだ。
この1本の積み重ねが、長い目で見れば寿命を縮めているのだと思うと、長生きしたくない私は少し救われるような気がする。
一口を時間をかけて吸い込み、そして同じくらいの時間をかけてゆっくりと吐き出す。
口から出た紫煙は、私の視界を曇らせながら上へ上へと昇っていき、やがて空気に溶けて見えなくなった。
タバコ特有の苦味を我慢しながら、指を火傷しない程度に根元まで吸いきる。
それをまだ少し中身の残っている缶の中に入れ、私は静かに目を閉じた。
ふと、昔観た映画を思い出した。
その映画は、死体があるという噂を聞きつけた子供達が線路を辿ってそれを見に行こうとする、という内容だったと思う。
その道中、線路の振動に気づいた子供たちがやってくる汽車を察知して、ギリギリのところで避けているシーンがあった。
私も彼らがやっていたように、その揺れを感じとろうと試みる。
しかし電車の起こす振動どころか、なにかが動いたような微かな揺れさえ感じることはできなかった。
そもそもこの路線はだいぶ前に廃線になっているのだから、電車が来ることはないのだ。
それは分かっていたのだけれど、それでもなにか、あるいは誰かが私をここまで迎えに来てくれはしないだろうかという期待があった。
そうでなければ、私を轢き殺すかしてくれるのでも構わない。
けれどいまは、それさえも叶わなかった。
「私は……どこにも行けない……」
そうぽつりと、口から独り言がこぼれ出た。
ここではないところならばどこでもいいから、どこかへ行ってしまいたい気分だった。
昨日、二年間働いていた会社を辞めた。
以前から受けていた上司のセクハラがエスカレートし、ついにそれが耐えられなくなったからだ。
それまでにも辞職届を出そうと思ったことはあったのだが、届けはその上司に出さなければならず、いざとなると私はどうしても躊躇してしまった。
しかし日に日に度を越していく彼の行いに対して、ようやく心を決め、辞表を提出した。
辞職の決意をした私に彼は、「この忙しい時期に……」とか「社会人としての自覚が……」といった文句をブツブツと言った。
実際に会社は繁忙期に入っていて、自分が辞めることでそのしわ寄せが周りの人にいくのは明らかだったし、社会からドロップアウトする自分には社会人としての自覚がないと言われてしまっても仕方のないことだと思って聞いていた。
けれどその最後に、「これだから女は」と吐き捨てるように言われたとき、私はあまりの発言に唖然とした。
なぜ私がそこまで言われなければならないのだろう。
出産や結婚となるとそういうことを言う人もいると分かっていたが、まさかセクハラの被害者である私が加害者である彼に同じことを言われるとは思ってもみなかった。
驚きとともに、女性であることを蔑視されたことにひどく傷つき、怒りすら感じた。
私は思わずなにか言い返そうかと思ったがとっさに言葉が思いつかず、結局彼の話が終わるまでなにも言い出せないまま、私物を持って会社を後にするほかなかった。
その帰り道で私はずっと考えていた。
私が女として生まれたことがいけなかったのだろうか。
たしかに男に生まれていれば、出産やセクハラなど、しなくてもいい苦労もあっただろう。
しかしだからといって、私はそれらを自分の性別のせいにしてしまうことはできなかった。
男に生まれていても女に生まれていても、私は自分らしさを忘れず必死に生きていただろうし、そのうえで負うことになる苦労もあるだろう。
男には男の、女には女の生きづらさというものがあるはずだ。
それに私は女だったからこそ今の夫と結婚し、可愛らしい娘を授かったのだからと、自分が女として生きてきたことで得られた幸せに充分満足していた。
だから、私は自分の性別を肯定して生きようと決めていたし、それが原因で起きた出来事に対しても、自分なりの理屈でうまく乗り越えていこうと決めていた。
けれどそんな思いが強かったからか、私は上司からセクハラを受けていることについても、そのせいで会社を辞めようとしていることについても、夫を含め、誰かに相談しようとは思わなかった。
ふいに、小石のぶつかる音がして我に返った。
すぐにまた、カチンと背後で物音がした。
踏み込むような重く規則正しい音と、おぼつかないような軽く不規則な音が背後から聞こえてくる。
物音は徐々に大きくなり、目の前にできた私の影にふたつの人影が並んだ。
音は私のすぐ後ろで止まった。
「落ち着いたかい」
人影が、低く物静かな声で尋ねてきた。
「……少し」と私が答えると影は移動し、左側から回り込むようにして私の前に来た。
うつむき気味だった私の視界に、つま先に軽く擦れたような傷がある革靴と、キャラクターのプリントがある子供用の靴が並んだ。
少し顔をあげると、明るい水色のポロシャツと紺の短パン、頭には黄色い帽子を被っている小さな女の子がじっとこちらを見ていた。
私と目があうと、困ったように隣の人を見上げてから、再び小さな目をこちらに向けた。
女の子は私の半分くらいしかない小さな手で、隣に立っている人の手をぎゅっと握っている。
その手を辿ってさらに顔をあげていくと、背中にリュックを背負い、肩から幼稚園の黄色いショルダーバックを下げたスーツ姿の男性がこちらを見下ろしていた。
「ゆぅくん、来てくれたんだ」
彼はなにも言わず、うなずく。
「まぁちゃんのお迎えも行ってくれたんだね」
「あぁ」と彼は短く答える。
「ありがとう」と私はお礼を言った。
「……紗奈のことも迎えに来たんだ。きっとここにいるだろうって思ったから」と彼が言う。
ここへくる前に彼宛のメッセージを送っておいたが、そこには私がどこにいるかを書いていなかったはずだ。
ただ、まぁちゃんのお迎えを代わりに行って欲しいとだけ頼んであった。
「よくここだってわかったね」と私は聞いた。
「紗奈が麻耶の迎えを頼むのは珍しいことだし、きっと昨日の喧嘩が原因だろうと思って……。そういう時はいつも、紗奈はここに来るから」
彼の話を聞いていて、彼は私のことをよく理解してくれているのだと感じた。
恋人だったころも含めれば、もう8年の付き合いになる。
改めて意識してみると、それはなんと長い時間だったことだろう。
それだけの時間を一緒に過ごしてきて、きっと彼は私の性格や行動の癖などもよく把握しているのだろう。
しかしその一方で、私には彼と同じくらい彼のことをちゃんと分かってあげられている自信がなかった。
いままでずっと彼のことを見てきたつもりだったけれど、私は自分のことで精一杯になってしまうことも多かったから、どうしても視野が狭くなることがあった。
だからいまでも彼と過ごしているなかで、私の知らない彼の一面を垣間見ることもある。
そしてそのたびに私は驚くとともに、実は彼のことを全然知らないないんじゃないかという不安に襲われた。
私は一体、彼の何を見てきたのだろうか、と……。
そんな思いに苛まれて自己嫌悪に陥る私に対しても、彼はいつもと変わらず優しく接してくれた。
しかし自分にはそんな彼の優しさを受ける資格なんてないような気がしてしまい、私はむしろ、もっと彼のことを理解しなければという焦燥感に駆られた。
「ごめんなさい。私のわがままでまぁちゃんのお迎えに行かせて、そのうえ私の迎えにまで来させちゃって……」
そう言って、私は目を伏せた。
「……いや、いいんだ。昨日のことは俺が悪かったから、本当にすまなかったと思ってる」と彼が私に謝る。
彼はいつもそうやって自分の過ちを素直に認め、私の行いを責めることもしなかった。
それなのに私は、内心では私みたいなめんどくさい人間にほとほとうんざりしているのかもしれないという妄想をしては、ひとり勝手に傷ついていた。
「ううん、私が悪いの。いつも全部私が悪いの……」
そう口にした途端、目頭がじわっと熱をもって、涙が一気に溢れ出た。
こぼれ落ちた水滴は、足元の乾いた石に落ちて黒く染まった。
「私はゆぅくんになんの相談もしないで仕事を辞めちゃったり、自分が出来損ないの人間だって感じて苦しくなってここに逃げてきたり、それなのにその後始末を全部ゆぅくんにさせちゃったり……。ぜんぶ、全部私がいけないの……だから……」
言葉が詰まってしまって、最後まで言い切ることができない。
彼は娘の手を離すと、私の震える肩にその手を乗せた。
彼の大きく骨ばった手の感触や体温が伝わってくると、私は少し落ち着きを取り戻した。
そして彼は腰をかがめ、私の頭を抱え込むようにしっかりと私を抱きしめた。
「そんなことない」と彼の声が耳元で聞こえる。
「俺も悪かった。紗奈が色々なものを抱えながらたくさん考えて決めたことだったのに、それを俺はちゃんとわかってあげられてなかった。そんな大事なことを相談しないで決めたってことが、俺のことを信頼してくれてないように思えて、俺は……紗奈を責めてしまった。まずは、大変な思いをして辛い決断をしたことを気遣ってあげるべきだったのに……。理由も聞かず、自分のことしか考えてなかった、出来損ないは俺のほうだよ」
そういって彼は、さらに強く私を抱きしめた。
それは少し痛いくらいだったが、その痛みはなぜか私を安心させた。
それから今まで溜め込んでいた想いが、まるでダムが決壊したように溢れ出し、私はその感情のままに声をあげながら泣きじゃくった。
私は止まらない涙をそのままに、彼の腰へと手をまわし、肩に顔を埋めるようにして抱きしめた。
彼の首筋から少し汗の混じった彼の匂いがしてきたが、私はその匂いを好きだと思った。
彼はなにも言わず、そっと私の頭を撫でていた。
そのまましばらく抱きしめ合っていると、痺れを切らした娘が帰りたそうにしはじめた。
「ねーえー、帰ろー? まぁちゃん、お腹すいた!」と、娘が声を張り上げる。
私と彼はお互いにまわした腕を離し、娘のほうを向いた。
気がつくと日がだいぶ傾き、あたりも薄暗くなっている。
日が暮れたことで、泣いて腫れたまぶたや化粧の崩れたひどい顔を、娘にも彼にもはっきりと見られずに済むのは幸いだった。
「そうだな、ごめんまぁちゃん。お待たせ」と彼が娘に謝り、立ち上がる。
私も脇に置いていたチューハイの缶を拾い上げ立とうとすると、彼が手を差し伸べてくれた。
私はその手をとり、彼が引き上げてくれるままに立ち上がった。
「あのね、まぁちゃん、パパにいい子にしててねって言われたから、いい子に待ってたの。まぁちゃん、えらいー?」と、娘は褒めてくれと言わんばかりにニコニコしながら尋ねた。
「うん、えらいね。まぁちゃん、ちゃんといい子にできてたよ。えらい!」と娘の頭を撫でながら私が答えると、娘は私の顔を見てとても嬉しそうに微笑んだ。
彼が「じゃあ、帰ろうか」と、娘の手をとる。
すると娘は「ママはこっち!」と、空いているほうの手を私に差し出した。
私はその手をとり、そのやわらかい感触や少し高い体温に、夫のときとは違った安心感を覚えた。
私には愛する夫がいて、そして愛する娘がいる。
孤独なんて感じている暇はないのだと思った。
私たちに挟まれて両手を繋いでいる娘は、嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら「ジャンプする! ジャンプ!」と言ってぴょんぴょんと飛び跳ねている。
私と彼は、娘の跳ぶタイミングを合わせて娘の手を上に引っ張りあげた。
私たちの腰くらいまで上がった娘の体を、今度はそのままゆっくりと地面に降ろす。
満足そうにきゃっきゃと笑い、「もっかい! もーっかい!」とねだる娘。
そしてそれを見て優しく微笑む夫。
わたしの居場所は、ちゃんとここにある。
そう思うとまた溢れてきそうな涙をこらえて、私は彼と娘のほうを向いて言った。
「大好きだよ」
彼と娘が私のほうを見る。
「俺も……大好きだよ」と彼が照れたように笑んで答える。
「まぁちゃんも、ママだーいすきー!」と娘がニッと笑う。
そんなふたりに私も笑い返す。
堪えきれなかった涙がひとしずく私の頬を伝って口の中に入ったが、その涙は温かく、そしてなぜか甘かった。
0コメント